元気にしてますか
※この記事は、『新しい朝が来た』『ありがとう。』『琵琶湖一周サイクリング』の続編になります。よかったらカテゴリー『新しい朝が来た』にまとめましたので、そちらからご覧ください。
8年近く暮らした養護施設での思い出の中で、とても印象深い子がいる。
彼は、後に20年間くらい、頻繁に私の夢に出てきた。
夢の内容はよく覚えていないけど、彼がブランコに乗る背中を押してあげていたり。
彼との関係に、無意識に悔いが残っていたのだろうか。
その日々のことを今思い出すと、自分がいかに未熟だったか、情けないし懐かしい。
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私が男子寮を担当していた時、彼は高校生だった。バリバリのツッパリだ。
時代が時代だったのでツッパリをしていたけれど、今高校生をしていたら、無口で人付き合いの苦手な、少し近寄り難い空気を醸し出す男子だったろうと思う。
彼とはよく衝突した。
いや、関わったのは、衝突したことだけかな。
私自身性格にあそびがなく、アイドルの話なんかくだらないとどっかで思ってたし、テレビも流行り物には飛びつかないと決めていた。まして下ネタ話なんて、口が裂けてもできない人間だった。全くの石頭だ。
社交下手の彼に輪をかけて社交下手な私。私達は要件のやりとりさえぎこちなかった。
そして、ルールに対して常に斜に構えて無視しようとする彼を、私のギチギチの正義感が追い詰めていたのかもしれない。
ある時も、食事の片付けを無視して行こうとする彼を追いかけて、「待ちなさい。片付けなさいよ。」と言ったことから、彼の感情が爆発し馬乗りになって殴られた。
怖いけど逃げたくない。逃げないことだけが私にできる精一杯のことだと信じていた。
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それから、数年後ある児童福祉施設の職員の方から、私宛に電話があった。
「banchan先生ですか?〇〇の担当のものですが。この度彼が卒園を迎えまして、その前に彼が、そちらのbanchan先生に会って話したいと言っておりまして。」
この電話は、私のそれまで生きてきた中でベスト3に入る嬉しい出来事だった。
実は、彼は学年が上がるにつれ行動が荒れていった。彼の内側の声を聞いてあげられる存在がないまま、暴走を止めることがでなかった。
ある夜、彼は男性職員に怪我をさせてしまった。修羅場にかけつけても、私にできたことはしゃがみ込む男性職員に覆い被さり、守るだけだった。それは男性職員を、というより、興奮してなおも掴み掛かろうとする彼に、それ以上のことをさせないようにだった。
でも、無力の私には、彼を守りきれなかった。彼は違う施設へと変わることになり、何もできないまま別れの日が来てしまった。
電話はその施設の職員の方だった。
彼と再会したのは、喫茶店だった。
先に座っていた彼は、私が入っていくと起立してくれて。本当に、根が真面目だったのだろう。彼も私もガチガチに緊張していた。私の胸は『ありがとう』でいっぱいなのに、二人きりで、言葉が出てこない。彼が不器用に「お世話になりました。」と言ってくれて、自分が何を喋ったかは思い出せない。
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その後、次に会ったのは、私が園で結婚し、長男を産んだ時だった。
新生児のお世話で昼夜逆転の日々を送っていた頃だ。私達が暮らす職員宿舎でピンポーンと。
ピンポーンでやって来る人など、滅多にない。
ボサボサ頭でどなたですかとドアを開けると、泣く子も黙る風貌の3人。
「おう!お前、子〜産んだんけ?」と。その筋の「映画の撮影ですか?」という感じだったけど、冗談なんて言えるわけが無い。私はこの嬉しい訪問者達にガチガチに緊張した。彼を含めて前後のリーダー3人が、揃ってきてくれた。なかなかレアな3ショットだ。オールスターだ。
「おう!お前ら子〜がおるからタバコはやめとけ!」と初代ボス。
「えっと、クリームパンしかないんだけど、食べる?」とテンパってる私。
最後に彼らは
「おう!コイツ(息子)も、しっかりMの剃り込み入れたれよ。」とアドバイスを残してあっという間に、3人で肩で風きって帰って行った。
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あの頃の私は、彼らだから受け入れてもらえたのかもしれない。
私も、大人社会では生きづらい人間だったろう。
不器用で、純粋で、人の痛みのわかる彼らとの思い出に感謝しかない。