ご近所に感謝の気持ちを
先日産休に入った娘と名古屋駅でお茶をした。
お互いの町から出てきて、駅のタリーズで待ち合わせ。
最近、ここのタリーズを気に入っている。
東京に行くと、私のスタバとは違う、スカイツリーの足元にあるスタバに連れて行ってもらう。初めて入った時は、大きな窓の外のスカイツリーをいっぱい写した。 こんなところにスタバがあるなんて、羨ましいと思った。
でも、この名古屋駅のタリーズの景色は、カフェ窓好き、、カフェ窓から見える景色好きの私の、目頭を熱くさせる感動のファーストインパクトだった。ソラマチのスタバに負けていない。あくまで私の感性での基準だけれども。
昨年はコロナ禍で全く名古屋に出なかったし、今年に入ってからはブログに夢中になって、外出自体していなかった。
それでも物足りなさを感じなかったのは、家好きだし、ご近所にも名古屋にも愛着がなかったから。
名古屋は『何もない』で有名。
島根に里帰りしたときに入ったカフェで、お隣の二人組の女性が「この間名古屋行ったんだけど、ナーンにもなかった。」と話していた。生の声を聞いて流石に苦笑いだった。
確かに島根は、観光には素晴らしい。山の緑も、空や海の青さも、その深みが違う。呼吸をすると、体の中まで綺麗な空気が染み渡る。
お祭りにしたって、4〜500年の歴史ある出雲神楽に触れて育った私には、ご近所の商店街振興の秋祭りとか、ちゃんちゃらおかしいと、腹の底らへんで思っていた。
東京じゃなきゃ、島根じゃなきゃ、と思っていた。
そんな考えが、歳をとった自分を息苦しくさせていたことに気づき始めた。
自分の心のもつれが解け始め、少しずつ呼吸が楽になってきて、景色が輝き始めている今日このごろ。
娘とタリーズを出ると、しばらく歩いてみた。楽しいひとときだった。名古屋駅の人の流れは整然として、電車に乗る人、買い物をする人、街路樹を揺らす風、全ての動きが心地よかった。
帰宅してからは、ご近所を1時間ほど散歩に出かけた。
嫁いで32年。何故ちゃんとこの町を見てこなかったのか。
主人が生まれて育った町。初めて愛おしく思える。
主人が遊んだ川には、3羽の鴨が泳いでいた。主人が、幼馴染「ひこ」と待ち合わせた公園では、老夫婦がバケツで水を運んで、花壇に撒いてくださっていた。
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1ヶ月ほど前。
ブログを書き始めて、半年が過ぎた頃から、私はスランプに陥っていた。
『愛』がわからなくなっていた。
noteに呟いてみた。
結局、根底にあるのは自分の傲慢さなのだと気づくのだけれど、
だからといってどうしたら日々を素直に見つめられるのかは分からず、素直に『愛』を感じられるものが見つからない。
この後も、迷走する気持ちのゴールを寝ても覚めても、何を食べても、ボーッと捜して、1ヶ月間もがいていた。
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私に深呼吸をさせてくれたのはこの本だった。
私のような状態を、『哲学ゾンビ』というのだそうだ。
身体は習慣通り日常を営んでいるが、内面的に何も感じていない人間(意識に注目すべき対象がなく、なんの感覚も受け取っていない人間)
実際、子どもの頃、私たちにとって、人生に起こるあらゆる出来事は新鮮でした。それゆえ世界はくっきり見え、時間もゆっくりと流れていました。しかし、大人になり日常の出来事が新鮮さを失うにつれ、世界はぼんやりとしていき、時間が過ぎるのも早くなってしまいます。
全く納得だった。だからといって「日々スペシャルな体験をせよ」と言われては私の最も不得意分野だなと思いつつ読み進めた。
そうではなく、「普段見過ごされている体験に目を向け、その体験を味わって生きよ」という。そうか、以前記事にした、身体に障害のあるまりこちゃんみたいに、ゆっくり歩いて日々の変化を観察するのか、と思った。それとも少しだけ違う。
この本の最後に厚めの『体験のチェックリスト』がついている。大量のカテゴリーがあり、それらのカテゴリーに、更に大量の項目がある。体験のあるなしに良かった悪かったの感想を加えて、色分けしてチェックをつけていく。
例えば、スーパーに食材を買いに行って、肉、野菜、果物、いつもお馴染みのものを買って帰る。この時ちゃんと意識して見ると、食べたことのない果物や、食材があるはず。それを日々一つずつチャレンジしてご覧なさいというのだ。
服でも同じで、買うときはストレス解消でパッと買うのに、着る時はいつも無難な同じ格好になってしまう。人の目を気にせず、サングラスをかけてスカーフを巻く体験をすることが大事だそうだ。
そして「この街が楽しくない」という問題の解決策があった。街を歩く時、例えば旅行で初めての街を歩いても、カフェや小物屋さんしか目に入っていない。そんな私にとって、自分の興味のない店は、無意識に壁や障害物と化しているという。確かに。
いつもの町でも、買わなくてもいいから「釣具屋さん」「キャンプ用品屋さん」にも入ってみて、そして体験を味わいなさい。こんなグッズ、こんな値段、と新しい発見が必ずあるはず、と励まされた気持ちになった。
それが即ち、日々の楽しみの見つけ方なのだと思った。
娘が「久屋大通も面白いよ。今度行こう。」と誘ってくれた。
久しぶりに 毎日に色が差していくような高揚感がある。
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主人はこの町に根ざして生きている。
私も、この町で1000人近くの子ども達を卒塾、送り出させてもらった。
感謝の気持ちを込めて、この町を歩こう。子どものように、発見したり、体験したりしながら。
それが『愛』なのかもしれない。