この窓から見える景色

~ 目指すぞ!エッセイスト 60からの挑戦の道 ~

『私のやり方』

 

 

今日は日曜日。恒例の主人と出かけるコーヒータイムが、昨夜から何だか楽しみだった。「明日のカフェが楽しみだな。」と言う私に、主人は「また、なんで?」と、大き過ぎる期待は困るよ、と言った感じの返事をした。

 

しっかり朝寝坊して、昼にもなりそうな時間に家を出ると、素晴らしい空だ。急に肌寒くなった天気が関係するのか、青い空に色々な形の雲がずっと向こうまで、360度広がっている。

 

 

いつものスタバの後百貨店で買い物をして帰る。

4階駐車場は、私の撮影スポットでもある。特に雲が良い日。

 

ちょっと待って、と主人に告げて、ガラケーから変えたばかりのiPhone を空に向ける。

風が強くて携帯を持つ手が少し緊張する。

ならば、と主人が、車に乗り込んだ私をフェンス際まで乗せて行ってくれた。

 

ほんの数十メートルの移動に、私の気分は、旅行にでも来たように盛り上がる。

景色が変わったから。

遠景の山並みに、手前の街並み、駅でもあるこの建物から出て行く電車が真っ直ぐ山の方へ向かって行くように錯覚する。

 

その上では、大きな鱗を持つ龍が体をうねらせながら下界を眺めているような、そんな雲がゆっくり流れている。夢中になってフェンスいっぱいに右往左往しながら、この感動を何とかスマホに収めてもって帰りたい、と思う。

 

「なんか、観光地にいるみたいだね、私。」と車で待っていてくれた主人に、ありがとうの代わりに言うと、主人は返事の代わりに、今度は車を屋上駐車場に向けてくれた。小さな百貨店で、屋上まで行く必要など今までになかった。

 

車の頭が空を向いて上がって行く。

胸が熱くなって、涙が滲んでくる。

何故かわからない。

屋上に立つと、誰もいない。

ただ、少しおしゃれして着て来たワンピースの裾が風にはたはた言う音と、私の嗚咽する声しか聞こえない。

もう、全部吐き出して泣いた。拭っても拭っても涙が止まらない。

 

喜怒哀楽の感情の涙ではなく、自分ではコントロールすることができないまま、身体の中に溜め込んでしまう何かが、ついに一杯一杯になって、堰を切って流れ出して来たような液体だった。

 

主人はきっと驚いてしばらくは、やっぱり車の中から見ていたようだった。そして、降りてきて「どうしたの?」と答えを求めるでもなく言った後、ぐるりを囲む山々の説明をしてくれた。そして、「今日の夕陽もきっと綺麗だね。」と言ってやっと私の方を見た。

 

夕方4時半、「夕陽を見に行くんでしょ。」と、また車を出してくれた。

 

 

 

 

***

 

 

この歳になって、暮らすことへの心配もなく、人間関係の些細なことにクヨクヨするような出来事もなく、平穏な代わりに、体調が変わりやすい。

 

夏の終わりから、脳疲労が激しく、右の耳の低音の難聴が酷くなって、聞こえて来る音の不快さに付き纏われる日々がずっと続いていた。

 

そうしたら、何だか夕陽にものすごく心惹かれるようになった。

何だろう、身体が欲する。

 

出来る限りお休みの日は夕陽を見に、西へ向かってお散歩をする。

私の目下の趣味は、夕焼けショーを見ることだ。

 

 

 

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この日、この景色を独り占めだった。

必死にスマホをあっちに向けこっちに向けしながら「独り占めだよー」と声を上げた。

でも、追いつかない。本物の感動は、画面の中には収まらない。

 

この景色の中に、赤い2両編成の在来線の電車が入って来る。

 

 

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そして、この川沿いの田園風景を横切って歩いていくと、今度は新幹線が抜けて行く。

カッコイイ。

 

別の日だけど、燃える夕陽の中に新幹線が駆け抜けていった。

 

 

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走れメロス』は、この太陽と同じ太陽が燃えて沈んでいくのを見ながら、友のことを想い、ひたすら走った。

 

風と共に去りぬ』のスカーレット・オハラは、この太陽と同じ太陽が燃えて沈んでいくのを背に「I'll  never be hungry again!」と神に誓って自分を奮い立たせた。

 

私は宇宙の歴史の中に生きている。壮大な気持ちに解き放たれて行く。

 

私の頭の中でも、♪タンタータターン、タンタータターンと『風と共に去りぬ』のテーマ曲がBGMとして流れるのだけれど、神に誓うほどの熱い気持ちは残念ながら探しても見当たらないので、とりあえずスマホにおさめてから、大きく深呼吸をする。

 

「この街が好き」と思う。

 

 

***

 

 

歳をとると花鳥風月に心惹かれるようになると聞くけど、それがよくわかる。

人に愛されたい、人を愛したい、と言うより、大きな存在に包まれたいと思う。それはいつか自分が戻って行く場所なのかもしれない。

 

 

少し前にもそんな事を感じた。

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***

 

 

そして、夜になると星を眺める。

Amazonで購入した、キャンプ用のリクライニングチェアをベランダに置いて、自分家の屋根や隣の家の屋根や、電線を避けて、やっとささやかな空間を見つけるのだけれど、寝そべって見る夜空は、それでも凄い。

 

星座のことも、天体のことも、全くわからないけれど、脳みその回路をすっ飛ばして、ただただ神秘的で畏敬の念に、逆に押しつぶされそうな、複雑な気分になる。

何かを「感じなさい」と天が言ってくる。「理解しなさい」と言ってくる。

川上ミネさんの『O  MEU CAMINO』というピアノ曲を聴きながら夜空を仰ぐと、それが何なのか、導いてもらえそうな温かい気持ちになるのだけれど、まだ時間がかかりそうだ。

 

何故この曲が、こんなに私に寄り添ってくるのか、この『O  MEU CAMINO』と言うポルトガル語の意味を調べてみた。

 

『私のやり方』と言う意味だった。

 

私が少しくらい傲慢でも、少しくらい柔らかくても、私が帰って行くのであろう大きな存在からしたら、ちっぽけなことなのかもしれない。

それなら、『私のやり方』で生きていきなさい、と言うことなのだろうか。

 

 

 

『はてなの街』に里帰り

 

 

私の学習塾がお盆休みに入ったので、故郷のようなはてなブログに帰省することにした。

手土産が何もないけれど。

 

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故郷島根に帰ると、必ずみんなで出かける蒜山高原岡山県

 

手土産がない上に、ネタ欠乏症だ。

 

今日の出来事で特記すべき何もないけれど、敢えて言うなら、

朝起きた時、身体中が痛くて、マットレスにへばり付く様に寝ていた身体を、なんとか、ゆっくり起こしてベッドを降りた。

 

あー、カズマの夢だった、と思った。

カズマは、大阪で一人暮らしをしている甥っ子。自閉症というハンディを持ちながら、逞しく生きている。

コロナで、全く会えない。今年もお盆に会うことができないな、と思ったからかな。相変わらず、日焼けした顔に大きめのメガネで、ニコニコしていた。

 

少し頭が起きてくると、なんでこんなに痛いんだ、と振ればカラカラ音を立てそうな脳みそで、昨日の一日をなんとか思い出してみる。

 

昨日は確かに大掃除はした。
でもなぁ、とそれ如きでか、と首を傾げた時思い出した。
Amazonで買ったハンガー掛けを組み立てた。高さがあって重かった。作りながら、汗だくになって、今日は人並みに1〜2ℓという汗をかいてるよこれ、と思いながら格闘した。

 

 

もともと、『組み立て』という作業は、最も苦手な仕事。

理由は2つあって、一つは力があまり強くない。

もう一つは、マニュアルを読むのが、とても苦手。面倒臭い。その通りにやるということが面倒臭い。読まずに、なんでも自分の感覚重視で進めてしまう。

 

 

読まずに感覚、というのは、一度こうだと思い込むと簡単に訂正できない、という欠点がついてくる。

 

昔、ナオトインティライミが世にでた時、その名前をきちんと読むのが面倒くさくて(一瞬面倒くさいのです)、感覚で読んでしまうのだ。タケシインテグラ。なんでそうなるのか、しかし私の中では、もうタケシインテグラになっている。

 

娘の前で、ペロっとタケシインテグラ、って言ったら爆笑されて、それはそれで、ちょっと失礼な、みたいな顔をしたら、娘が慌てて謝ってくれた。

 

アプリの『Pinterest』のことも、私はちゃんと読んだことがなく、『赤のP』とだけ認識している。先日娘と話していて、「アプリでさ、『ピンセット』とかあるじゃん」とうかつに言ってしまった。すると娘は「あっ、『ピンタレスト』ね」と言った後、一瞬笑いを飲み込んだ、私はそれを見逃さなかった。

 

 

***

 

 

そして、力が強くないと言えば、

これも昔、お昼ご飯に、『桃屋のチャント五目寿司のたね』という瓶の商品に悪戦苦闘したことがある。

主人は、徒歩3分のところに事務所があるので、昼ごはんに帰ってくる。私も学習塾をしているので、昼食を作って、食べて、はい授業、というこの時間帯は、とても慌ただしい。

その上、この日は美容院帰りだったので、さっと作ろうと、ご飯にこの寿司の素を混ぜて、お刺身を乗っけて、『なんちゃって海鮮丼』を予定していた。

 

が、瓶の蓋が開かない。固い。焦れば焦るほど開かない。調理台はしっちゃかめっちゃか。あの手この手を繰り出している。

 

もう電話する!

 

瓶裏のシールに書かれた電話番号に「おい、開かないじゃないか」と言ってやろうと思った。(でも、勘違いしないで頂きたいが、私は決してクレイマーキャラではありません。天然なところはあります)

意気込んで電話をすると、「それは、瓶の蓋を熱いお湯に数秒つけてから、開けてみてください。」と、よくある質問的に、冷静にサラリと返答をくれた。

勢いの収まり場所を失った私は「こういうお手軽な商品は、若いファミリー向けというより、リタイアした二人暮らし夫婦が、ターゲットじゃないんですか。だったら、年寄り向けに蓋も改良されたらどうですか。」と、勝手に喋った。すると「ありがとうございます。検討させていただきます。」との答え。

 

とにかく急がねばと言われた通りにやってみると、ものの15秒だ。魔法か。感心した。

おまけに、瓶裏の電話番号の近くに赤い字で、その開け方が書いてある。申し訳ないと思った私は、また瓶裏番号にかけて、「ありがとうございます。魔法のように開きました。」とお礼を言い、ここでまた10分ロスをした。

 

桃屋のチャント五目寿司のたね』は期待に反して、瓶の蓋がモデルチェンジされることはなかった。

 

***

 

毎昼帰ってくる主人はと言えば、ずっとロボットのゲームに取り憑かれている。

今日も帰って来て、うがい、手洗いをすると、そそくさとタブレットを持って座り込み、配膳する私をかすかに視界に入れているかどうか。

 

これまた昔、二人で運命論みたいなことを話していた時、私が、とても守られていると感じると感謝の意を伝えると、主人は「俺はbanchanの『円卓の騎士』だと思っている。」と言ってくれた。若かった。

ねえ、『円卓の騎士』じゃなくても、せめて『食卓の紳士』で、ゲーム片付けてね、なんちゃって。

 

 

 

***

 

 

今、書くことがとても楽しいです。前の記事でも書いたように、noteでも、書きっぱなしで呟いています。そうそう、前回記事の後、noteのあの記事をたくさんの皆さんに開けていただきました。はてなの皆さんが来てくださったんだなって、本当に感謝でいっぱいでした。

 

 

The Long And Winding Road

長く曲がりくねった道。人生100年時代と言われ、私たち還暦世代も、この先長い道のりだと思います。ただ、真っ直ぐに先が見えてしまうのは、逆に退屈です。曲がりくねって、何が起こるか、何が待っているか、わからない方がファイトが湧いてきます。

 

書くことで、もう一度何か起こしたいと夢を持ち始めました。

 

はてなブログは、私の故郷です。いつも、温かい励ましのコメント、スター、ブックマーク、本当にありがとうございます。

 

 

 

先日はnoteの方で、はてなブロガーのふーみんさんの記事をお借りして書いた記事が好評を頂きました。ふーみんさん、ありがとうございました。

 

 

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ご近所に感謝の気持ちを

 

先日産休に入った娘と名古屋駅でお茶をした。
お互いの町から出てきて、駅のタリーズで待ち合わせ。

 

最近、ここのタリーズを気に入っている。

 

東京に行くと、私のスタバとは違う、スカイツリーの足元にあるスタバに連れて行ってもらう。初めて入った時は、大きな窓の外のスカイツリーをいっぱい写した。 こんなところにスタバがあるなんて、羨ましいと思った。

 

でも、この名古屋駅タリーズの景色は、カフェ窓好き、、カフェ窓から見える景色好きの私の、目頭を熱くさせる感動のファーストインパクトだった。ソラマチのスタバに負けていない。あくまで私の感性での基準だけれども。

 

 

昨年はコロナ禍で全く名古屋に出なかったし、今年に入ってからはブログに夢中になって、外出自体していなかった。

それでも物足りなさを感じなかったのは、家好きだし、ご近所にも名古屋にも愛着がなかったから。

 

 

名古屋は『何もない』で有名。

島根に里帰りしたときに入ったカフェで、お隣の二人組の女性が「この間名古屋行ったんだけど、ナーンにもなかった。」と話していた。生の声を聞いて流石に苦笑いだった。

 

確かに島根は、観光には素晴らしい。山の緑も、空や海の青さも、その深みが違う。呼吸をすると、体の中まで綺麗な空気が染み渡る。

お祭りにしたって、4〜500年の歴史ある出雲神楽に触れて育った私には、ご近所の商店街振興の秋祭りとか、ちゃんちゃらおかしいと、腹の底らへんで思っていた。

 

 

東京じゃなきゃ、島根じゃなきゃ、と思っていた。

 

そんな考えが、歳をとった自分を息苦しくさせていたことに気づき始めた。

自分の心のもつれが解け始め、少しずつ呼吸が楽になってきて、景色が輝き始めている今日このごろ。

 

 

 

娘とタリーズを出ると、しばらく歩いてみた。楽しいひとときだった。名古屋駅の人の流れは整然として、電車に乗る人、買い物をする人、街路樹を揺らす風、全ての動きが心地よかった。

 

帰宅してからは、ご近所を1時間ほど散歩に出かけた。

嫁いで32年。何故ちゃんとこの町を見てこなかったのか。

主人が生まれて育った町。初めて愛おしく思える。

 

主人が遊んだ川には、3羽の鴨が泳いでいた。主人が、幼馴染「ひこ」と待ち合わせた公園では、老夫婦がバケツで水を運んで、花壇に撒いてくださっていた。

 

 

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 ***

 

1ヶ月ほど前。

ブログを書き始めて、半年が過ぎた頃から、私はスランプに陥っていた。

『愛』がわからなくなっていた。

 

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 noteに呟いてみた。

 

 

結局、根底にあるのは自分の傲慢さなのだと気づくのだけれど、

だからといってどうしたら日々を素直に見つめられるのかは分からず、素直に『愛』を感じられるものが見つからない。

この後も、迷走する気持ちのゴールを寝ても覚めても、何を食べても、ボーッと捜して、1ヶ月間もがいていた。

 

***

 

 

 

 

 

私に深呼吸をさせてくれたのはこの本だった。

 

私のような状態を、『哲学ゾンビ』というのだそうだ。

 

身体は習慣通り日常を営んでいるが、内面的に何も感じていない人間(意識に注目すべき対象がなく、なんの感覚も受け取っていない人間)

 

実際、子どもの頃、私たちにとって、人生に起こるあらゆる出来事は新鮮でした。それゆえ世界はくっきり見え、時間もゆっくりと流れていました。しかし、大人になり日常の出来事が新鮮さを失うにつれ、世界はぼんやりとしていき、時間が過ぎるのも早くなってしまいます。

 

全く納得だった。だからといって「日々スペシャルな体験をせよ」と言われては私の最も不得意分野だなと思いつつ読み進めた。

 

そうではなく、「普段見過ごされている体験に目を向け、その体験を味わって生きよ」という。そうか、以前記事にした、身体に障害のあるまりこちゃんみたいに、ゆっくり歩いて日々の変化を観察するのか、と思った。それとも少しだけ違う。

 

 

この本の最後に厚めの『体験のチェックリスト』がついている。大量のカテゴリーがあり、それらのカテゴリーに、更に大量の項目がある。体験のあるなしに良かった悪かったの感想を加えて、色分けしてチェックをつけていく。

 

例えば、スーパーに食材を買いに行って、肉、野菜、果物、いつもお馴染みのものを買って帰る。この時ちゃんと意識して見ると、食べたことのない果物や、食材があるはず。それを日々一つずつチャレンジしてご覧なさいというのだ。

 

服でも同じで、買うときはストレス解消でパッと買うのに、着る時はいつも無難な同じ格好になってしまう。人の目を気にせず、サングラスをかけてスカーフを巻く体験をすることが大事だそうだ。

 

 

 そして「この街が楽しくない」という問題の解決策があった。街を歩く時、例えば旅行で初めての街を歩いても、カフェや小物屋さんしか目に入っていない。そんな私にとって、自分の興味のない店は、無意識に壁や障害物と化しているという。確かに。

 

いつもの町でも、買わなくてもいいから「釣具屋さん」「キャンプ用品屋さん」にも入ってみて、そして体験を味わいなさい。こんなグッズ、こんな値段、と新しい発見が必ずあるはず、と励まされた気持ちになった。

それが即ち、日々の楽しみの見つけ方なのだと思った。

 

 

娘が「久屋大通も面白いよ。今度行こう。」と誘ってくれた。

 

久しぶりに 毎日に色が差していくような高揚感がある。

 

 

***

 

 

主人はこの町に根ざして生きている。

私も、この町で1000人近くの子ども達を卒塾、送り出させてもらった。

感謝の気持ちを込めて、この町を歩こう。子どものように、発見したり、体験したりしながら。

それが『愛』なのかもしれない。

 

 

  

おねがい!DJ!

 

 

はい、最初のお葉書はペンネーム『時の流れに浮く小舟』さんからです。

 

「こんにちは。私は出雲に暮らす高校生です。

先週、高校のバス遠足で大山に行きました。

牛を見たり、芝生で遊んだりしてとても気持ちよかったです。

みんなでお弁当広げてワイワイ食べました。

実はなんと、そこにNHKの人が取材に来たのです。

写りたいけど恥ずかしいと思いながら自然を装って過ごしました。

夕方のニュースで流れると聞いたのでチェックすると、写ってました、私!

でも、ちょうどカメラが来たその時、

坂になった芝生でスッテンコロリンと転がってました。

悲しいです。

 

オフコースの『少年のように』をお願いします。」

 

はい、『時の流れに浮く小舟さん』ありがとうございました。

そうでしたか、転んじゃいましたか。

しかし、大山、いいですね。気持ちのいい季節ですよね。

 

では『時の流れに浮く小舟』さんのリクエストで、オフコースの『少年のように』聴いてください。。。。。。。

 

 

これが、私にとって初めて自分の文章が公共の電波に乗った感激の瞬間でした。

普段から地元FMはよく聞いていて、DJはお兄さんのような存在でした。

『時の流れに浮く小舟』』という、なんとも微妙な、JKらしからぬ枯れたペンネームでしたが、その後も何度か読んでもらいました。

 

***

 

先日大きな娘Mから、「これ当たった!」ってラインが来まして。

見ると小田さんが参加するフェスのチケット。

それも、会場がうちから近い!

Mは県外なのに、私ノーマークだった。。。。

 

どっちにしても夏は夏期講習やらで行けないし、仕方ないか。

 

それにしても、小田さんはつくづく凄い。

もうすぐ74歳なのに、ファンの前で歌うことを諦めないし、歌うことや人生の価値感にブレがないと思うのです。

 

80歳になる前に、コロナ収束して、小田さんが全国ツアーできますように。

 

おねがい!DJ!

 

 

 

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小田さんは、我が家にとってフラッグなんです。

 

目印の旗

家宝の旗

そして

応援の旗

 


はい、では次のお葉書はペンネーム『ぽんちゃん』さん。

9月に出産を控えた、もうじきママさんですね。

 

「いつも小田さん(オフコース)の曲を聴くと『小さい頃の大好きな家族に守られて安心いっぱいで過ごしていた自分』がふわーっと湧き上がってくる。お母さんにとっての小田さんとは違う意味で私のルーツが詰まっているような存在。

 

そして私にとって家族は居場所であり、その時に自分が感じていたなんとも言えない幸せな気持ちが蘇ってくる。特にオフコースを聞いている時って、家族みんなで聞いたり歌ったりしてた記憶があるから、余計に幸せ感が大きいのかもしれない。

そんな場所があって育ってきた私は幸せです。」

 

 

このメッセージを読んだお母さんは、さぞかし嬉しかったでしょうね。

『ぽんちゃん』さんも、きっと素敵なママになります。

 

 

***

 

では、次のお葉書は、ペンネーム『ウルトラのママ』さんです。

 

「長男が4歳を過ぎた頃から、ふいに『ママ大好きだよー』っハグしてくれることが増えました。『急にどうしたの?何かあった?』と聞くと『ママのことが大好きだなぁと思って』との返事。妹が生まれて兄になった長男を、一段と愛おしく思った瞬間です。

 

厳しく叱られようが、怒られようが、いつも200%の愛をくれる長男。

一方で私は、同じ気持ちで向き合えてないと思い反省しました。

イライラが伝わるような声色で接したな、『ちょっと待っててね』って何回待たせたかな。

反省ばかりです。

 

『愛おしい我が子、誰よりも大切に思っている』と思っていましたが

子の親に対する無償の愛ほど大きく深くピュアなものはないと気付かされました。

子育てというけれど、子どもに育ててもらっている。親にさせてもらっている。

なんなら神様から預かった子どもを育てさせてもらっているという感覚にさえなりました。」

 

 

このママの義母さんは、素敵なお嫁に感謝したことでしょうね。

大切な息子に、宝物(ファミリー)をありがとうって。

 

 

 

 

***

 

 

最後のお葉書は、ペンネーム『カズマ』さんです。

『カズマ』さんは、自閉症という障害がありながら、自立して生活しているそうです。

 

 

「ぼくは、実は全国障がい者技能競技大会(全国アビリンピック)県内予選大会に出場しまして、ズバリ、1位を獲得しました!!

従って12月に東京で開催される全国大会へ出場することになりました。

引き続き練習を積み重ね、更なる上を目指すよう、頑張ります!」

 

 

私の甥っ子、カズマは、本当にいつも上を見ている人です。

毎年夏と冬の2回程しか会えないけれど、その度に逞しくなっています。

 

人混みでは集中が途切れないように耳栓をつけているし、コンビニで水1本買うにも、つい不要な挙動をしてしまう。それでも、一度も弱音を聞いたことがありません。

経済的にも節約に心がけ、身体づくりにも気をつけています。

 

自立して生きる覚悟を、しっかりと持っている人です。

 

 

***

 

私は、といえば、初めてリクエスト葉書を読まれた日のワクワクから、人生のいろいろな味付けを美味しく味わって、遠回りしたけれど、今、文章を書く、読んでもらうことへの努力と挑戦を楽しんでいます。

 

 

 

さあ、それぞれの場所で頑張るみんなに、応援の旗を振ろう。

目印はここだよって、いつも振り続けるよ。

疲れた時は、上を見るんだよ。澄み渡った空に、あの頃聴いた小田さんの歌が流れているよ。

 

 

 

元気にしてますか

 

※この記事は、『新しい朝が来た』『ありがとう。』『琵琶湖一周サイクリング』の続編になります。よかったらカテゴリー『新しい朝が来た』にまとめましたので、そちらからご覧ください。

 

 

tenebo.hatenablog.com

 

 

8年近く暮らした養護施設での思い出の中で、とても印象深い子がいる。

 

彼は、後に20年間くらい、頻繁に私の夢に出てきた。

夢の内容はよく覚えていないけど、彼がブランコに乗る背中を押してあげていたり。

彼との関係に、無意識に悔いが残っていたのだろうか。

 

その日々のことを今思い出すと、自分がいかに未熟だったか、情けないし懐かしい。

 

***

 

私が男子寮を担当していた時、彼は高校生だった。バリバリのツッパリだ。

時代が時代だったのでツッパリをしていたけれど、今高校生をしていたら、無口で人付き合いの苦手な、少し近寄り難い空気を醸し出す男子だったろうと思う。

 

彼とはよく衝突した。

いや、関わったのは、衝突したことだけかな。

私自身性格にあそびがなく、アイドルの話なんかくだらないとどっかで思ってたし、テレビも流行り物には飛びつかないと決めていた。まして下ネタ話なんて、口が裂けてもできない人間だった。全くの石頭だ。

 

社交下手の彼に輪をかけて社交下手な私。私達は要件のやりとりさえぎこちなかった。

そして、ルールに対して常に斜に構えて無視しようとする彼を、私のギチギチの正義感が追い詰めていたのかもしれない。

 

ある時も、食事の片付けを無視して行こうとする彼を追いかけて、「待ちなさい。片付けなさいよ。」と言ったことから、彼の感情が爆発し馬乗りになって殴られた。

怖いけど逃げたくない。逃げないことだけが私にできる精一杯のことだと信じていた。

 

 

***

 

それから、数年後ある児童福祉施設の職員の方から、私宛に電話があった。

「banchan先生ですか?〇〇の担当のものですが。この度彼が卒園を迎えまして、その前に彼が、そちらのbanchan先生に会って話したいと言っておりまして。」

 

この電話は、私のそれまで生きてきた中でベスト3に入る嬉しい出来事だった。

 

実は、彼は学年が上がるにつれ行動が荒れていった。彼の内側の声を聞いてあげられる存在がないまま、暴走を止めることがでなかった。

ある夜、彼は男性職員に怪我をさせてしまった。修羅場にかけつけても、私にできたことはしゃがみ込む男性職員に覆い被さり、守るだけだった。それは男性職員を、というより、興奮してなおも掴み掛かろうとする彼に、それ以上のことをさせないようにだった。

 

でも、無力の私には、彼を守りきれなかった。彼は違う施設へと変わることになり、何もできないまま別れの日が来てしまった。

電話はその施設の職員の方だった。

 

 

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 彼と再会したのは、喫茶店だった。

先に座っていた彼は、私が入っていくと起立してくれて。本当に、根が真面目だったのだろう。彼も私もガチガチに緊張していた。私の胸は『ありがとう』でいっぱいなのに、二人きりで、言葉が出てこない。彼が不器用に「お世話になりました。」と言ってくれて、自分が何を喋ったかは思い出せない。

 

***

 

その後、次に会ったのは、私が園で結婚し、長男を産んだ時だった。

新生児のお世話で昼夜逆転の日々を送っていた頃だ。私達が暮らす職員宿舎でピンポーンと。

ピンポーンでやって来る人など、滅多にない。

 

ボサボサ頭でどなたですかとドアを開けると、泣く子も黙る風貌の3人。

「おう!お前、子〜産んだんけ?」と。その筋の「映画の撮影ですか?」という感じだったけど、冗談なんて言えるわけが無い。私はこの嬉しい訪問者達にガチガチに緊張した。彼を含めて前後のリーダー3人が、揃ってきてくれた。なかなかレアな3ショットだ。オールスターだ。

「おう!お前ら子〜がおるからタバコはやめとけ!」と初代ボス。

「えっと、クリームパンしかないんだけど、食べる?」とテンパってる私。

最後に彼らは

「おう!コイツ(息子)も、しっかりMの剃り込み入れたれよ。」とアドバイスを残してあっという間に、3人で肩で風きって帰って行った。

 

 

***

 

あの頃の私は、彼らだから受け入れてもらえたのかもしれない。

私も、大人社会では生きづらい人間だったろう。

 

不器用で、純粋で、人の痛みのわかる彼らとの思い出に感謝しかない。

 

 

優しい人

 

 

私には、兄がいる。確か4歳違いの64歳。

子供の頃、両親から“ダイちゃん“と呼ばれていた兄は、成長とともに無口で、全く何を考えているのか謎すぎて、近寄り難い人になっていった。

 

きょうだいの3番目に生まれた私が物心つくまでの約10年間、極貧と社会性に欠けた両親の間で、兄と姉は壮絶な幼少期だったんだと、姉は今でも変なドヤ顔で語る。私も少しは覚えてはいるが、「それはそれは、、、」ご苦労様、お気の毒様、、、返答に困りつつ興味深く聞く。

 

その壮絶な幼少期のせいかどうかは知らないが(なんせゆっくり喋ったことがないから)小学生までは私達妹を連れて近所の子達とわんぱくに遊んでくれた兄が、中学生になるとパタリと殻にこもってしまった。

 

何を聞いても「おっ」か「しらん」か「あほか」しか言わない。いつしか、私達は一応愛情を込めて、陰で“フランケン"と呼ぶようになった。

 

 

中学生になると、兄だけ二階に一人部屋が与えられた。私達は5人で、二本の“川の字“が合流するように、一部屋でぎゅうぎゅうで寝ていたのに。両親も兄の取り扱い方がわからず、とにかく特別に大事にしていた。

 

兄は、野球中継と『巨人の星』を見る以外は、ずっと自室にこもっていた。「お兄ちゃん、ご飯」「お兄ちゃん、電話」「お兄ちゃん、お風呂沸いた」と下から叫ぶのは私の役目。

 

そして、帰宅後、週末は、決まってアース・ウィンド&ファイアーボズ・スキャグスの洋楽が聞こえてくる。歌謡曲しか知らなかった私の好奇心がそそられる。「なんだろう、あの曲」音楽に心が高鳴り、兄の部屋への羨望と好奇心がマックスになった時、そのチャンスが訪れた。

 

兄が修学旅行で留守になった。

その夜「今夜お兄ちゃんの部屋で寝ていい」と母に言って、パジャマ 姿で恐る恐る階段を登り、誰も居ない兄の部屋に入る。こっそりと。「ひとりだー」と心で叫び、兄の万年床に潜り込む。

「クサっ!」「クーサ〜〜〜〜」。なんの匂いか、脳が自己防衛反応でデリートしてしまっているけど、およそこの世の何かに例えられる匂いではなかった。

それでも私は、一人で寝る優越感を放棄する気にはなれず、目と鼻を閉じて寝た。しかし夜中気持ち悪くなって目を覚まし、思わず二階の窓から吐いてしまった。そして、“合流川の字”の自分の布団へと戻った。

 

***

 

成長した兄は、ずっと無口だったけど、頑固なほどに『芯のある人』と感じることがよくあった。

 

兄は結婚して、隣町に住んでいる。両親の要望通り、国学院大学で修行し神職の免許を取り、神主の後を継いだり、経済的に親を援助したり、やっぱり筋の通ったことをする人だった。でも、コミュニケーションは取らず、家族はすっかり兄に苦手意識を持っていた。

 

そこで立ち上がったのは、この私。気楽な真ん中っ子だ。

お互い50代の時だった。「今度帰省した時、ゴルフしよう」と持ちかけた。何年ぶりの会話で、初の電話で、兄の部屋にこっそり入った時くらいドキドキした。最初誰かもわかってもらえなかったけど、電話の声に、ジーンとする程優しさを感じた。

 

私は兄に、勝つまで毎年やりたいと宣言した。最初の年は「えーと、何打だったか分からない」と言った私に「おー、天文学的数字だ」と兄が言う程、差があったけど、私は3年目に勝ってしまった。「私が勝ったから、記念撮影して」と兄に言うと、優しくカメラを見てくれた。その画像を家族に見せたら、みんな口々に「おー」と、まるで行方不明者を見つけたように目を細めた。

 

私と主人と兄、3人のゴルフ決戦は、それで途絶えてしまったけど、実は主人は、初めて会った時から兄の優しさをよく知っていた。主人をうちの家族に紹介するため、食事会をした時のことだ。みんなの前では、タバコを吸って何も喋らない兄が、トイレに立った主人の後からやって来て「妹を幸せにしてやってください。」とボソッと言ったそうだ。お酒も入っていた主人はトイレで号泣したらしい。

 

 ***

 

私が大学に受かり実家を出る時、 もう戻ることはないだろうと心のどこかで決めていた。だから、家族の思い出の写真を失敬した。極貧で、いびつながら両親の愛が滲み出ている東京時代のモノクロの写真。島根で写した家族の記念写真。なんだかんだ、私はやっぱり家族が大好きだ。

 

 

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島根県 松江城

 

 

 

今の兄は、毎週実家にやって来て、老いた両親に「何か欲しいものはないか?」とぶっきらぼうに言ってから、必ず裏山に入り、古墳のような代々の墓をずっと掃除しているそうだ。相変わらず謎だ。

 

そして、真ん中っ子の私が、両親の状況を連絡し合うようにきょうだいのグループラインを設定したが、未だに兄が、既読以外のリアクションをとったことはない。

 

東京でりんごの木箱をひっくり返して食卓にしていたと言う若者二人が、懸命に生きた。

そして今、兄の長男で、眼科医になっている孫に、「おじいちゃんの目は僕が治すよ」と診察室で言ってもらったそうだ。そんな未来を誰が想像できただろう。

 

人生って素敵だ。

 

***

 

長くなってしまった記事を最後までお読みいただき本当にありがとうございます。

私は「この窓から」自分の愛する人や思い出を、アウトプットしてみることの、自分にとっての必要性を痛感する今日この頃です。

また、自分の好きだけでなく、色々な方々の好きを共有させて頂くことで、偏りのない柔軟な心のおばあちゃんになれるかな、と思う次第です。

なので、ブログは宝物です。

そのスタンスで、ブログに費やせる時間の中で、できる限り皆様との交流を喜びにしてまいりたいと思います。スターのお返しなど、失礼が多々あるかと思いますが、これからもよろしくお願い致します。

 

  

「終わりのない歌」

 

 

先日、小学生のブロガーさんの記事に、「お互い頑張りましょう」と言うコメントを残してしまった。

 

もちろん大人なら、何も目くじらを立てる人はいないだろうし、私自身気合が入ってくると「頑張るぞ」と発する。

 

でも確実に年齢的に上、下、ができてしまう子どもに対して、安易に「頑張れ」と放たないよう心がけているつもりだった。塾の生徒さんは来てくれてるだけでも一頑張りしているので、私の自己満足的な「頑張ってね」ではなく、なるべく具体的なことを示そうと信念を持っている。

 

ついコメント欄の制約の中で使ってしまって、後日気になった。

翌日彼女は「頑張りによって人が救えるなら、頑張るかもしれない」と書いていらっしゃる。

 

今日は、「頑張る」を考えてみようと思う。

 

とりあえず、「怠ける」の反対語としての「頑張る」ではなく、一所懸命の姿が他者に共鳴して、何かの動機付けを与えられるかも、と言う意味での「頑張る」を取り上げてみたい。

 

***

 

2019年5月6日放送、NHK逆転人生〜伝説のロックシンガー 復活の歌〜

で取り上げられた、奥野敦士さんの物語を紹介したい。

 

彼は1985年デビューしたロックバンド ROGUE のボーカリストだった。

そのパワフルで伸びやかな歌声と音楽性で、当時500はあったと言われる、ロックバンドの中から抜きん出るのにさほど時間を要しなかった。

 

1987年「終わりのない歌」のヒットで1989年には日本武道館単独ライブを成し遂げる。

奥野は、憧れのロックスターの夢を叶えるが、もっとビッグになりたいと言う野心が、仲間との関係に亀裂を生み、1990年一方的に「もう終わりにしよう」と仲間に告げ、人気絶頂の中解散してしまう。

 

しかしながら、その後の奥野の人生は転落していく。

 

ヒットは出ず、酒浸りの暮らしが10年以上続いたある日、喧嘩別れのままだったバンドメンバーの一人から、「再結成の誘い」の電話がかかる。

それが彼を奮い立たせた。酒浸りから抜け出し、緩み切ったから身体を鍛えるため解体業のアルバイトに精を出し。。。。。身も心も絶好調のはずだった。

 

ところが2008年9月、更なる試練が奥野に降りかかる。

 

解体する工場の屋根から落下。一命は取りとめるが、頸髄を損傷し下半身を動かすことができなくなる。生活の一挙一動まで介護が必要な状態になる。ここが奥野の人生のどん底だったと言う。

 

しかし、逆転があるのだ。

 

事故から1年半、1枚のDVDが届く。

かつてのバンドメンバーやファンからの応援メッセージだった。「復活を待っています」の言葉が溢れ出していた。

 

背中を押された奥野は、リハビリ担当の作業療法士さんに「歌が唄えるようになりたい」と気持ちは伝えるが、腹筋を全く動かすことができないので、歌声は出せないし、音程も取れない。

 

しかし、神様が用意してくれていたのか、その堅い堅い扉が開く日が訪れる。

 

その歌声がこれ。女性の声は作業療法士さん。魂の歌声を聴いて頂きたい。

 

 


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この話には、更なる感動のエピソードがある。

 

ある日、この動画を観たという人物が、群馬のこの病室に訪ねてくる。

 

 

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その人物はMr.Children桜井和寿だった。

中高生の時からROGUEを聴いていたという桜井は、自分の野外フェスで歌ってほしいと話した。

 

この申し出は、体調のことがあり実現しなかったが、本当にカッコイイと思った。

 

2013年10月、ついに、支えてくれた仲間の力添えで、地元の"グリーンドーム"で、23年ぶりの復活コンサートが行われる。なんと4000人のファンが駆けつけ声援を送った。

 

その時の「終わりのない歌」

 


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「腹から声が出なくても、心から声が出る。伝えたい気持ちが伝わればいい。」と語っていた。

 

 

 

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以前通っていた美容室に、いつも手を真っ赤に腫らしながらも、一所懸命シャンプーをしてくれる男の子が居た。その子にシャンプーして欲しくて、電車に乗って出かけた。

その帰り道、必ず「私もあの男の子のような気持ちで、授業するぞ。」と思えた。

 

頑張る気持ちは、共鳴し合うと思う。

 

***

 

暗く、寂しい夜道を、一人うなだれて歩く帰り道。

ふと顔を上げると、夜空には満点の星の子たち。どれだけ元気と勇気をもらえることだろう

 

 

 

 

美しい景色のように年を重ねる

 

※命に関する記事です。気分を害されるようでしたら、ごめんなさい。 

 

島根で二人で暮らす両親。

父、90歳。母、84歳。

 

実家から離れて暮らす私が両親に出来ることは、こまめに電話して声を聴くことと思っている。

特に6月に入り、骨粗鬆症の母が入院したので、家に一人になり、父は考え込んでは弱気になってしまうのだろう。

先日の電話では、開口一番「人間はなぁ、生まれる時も裸、死ぬ時も裸。どんなに金を持っていてもみんな一緒、裸で死ぬんだよ」と。。。。どうした?「なのに延命だの、なんだの騒ぎ立てる。静かに死なせてくれたらいいのに、あれは周りの人間のエゴだ。」

 

私は、とりあえず「そうだね。裸で生まれて、裸で死ぬのは万人に平等だから、どんな人生で、どんな旅をして、そこに帰って来たかってだけのことになるんだね。」と答えた。

 

ゆっくり、いろいろ話すうちに、心の絡みがほどける様に、胸の内を吐露してくれる父。

父は、70〜80年も前から、ハイリーセンシティブパーソンだ。

 

どうやら、要介護2の父の為に支援の手を差し出してもらうことにプライドが傷つくらしい。

 

実家は神主の家で、戦前は大きな家だったらしい。27代前からの家系図が残っていたり、隠岐島流しになった後鳥羽上皇から頂いた短刀が家宝と言われたり、とにかくプライドの高い家だったらしい。

それが戦後の混乱の中で、建物も土地も失い、父親(私の祖父)が病死し、母(私の祖母)が、女手一つで裁縫仕事で、足の悪い姉と自分を育て上げる上で、手のひらを返したような周囲の仕打ちに、少年だった父は、嫌と言うほど現実を突きつけられたのではないだろうか。

 

「昔なぁ、仙台に旅行に行った時、バスが来るのを待っていたら、『乗車する人は並んでくれ』って言うだ。わしはそれが嫌でのー。」

並べなかった、という父に「それはさー、心理学的に言うと、、、、」と理屈を並べる私に、父はあっさり、「そうだな、トラウマだな。戦後、配給とか、一つ一つならばされるのが嫌だった。食べ物貰うために並ぶことは、できない、と自分の無意識が選んでいたんだろうな。」

 

戦中戦後の混乱の中、生き抜いて来た少年少女が、人生の終盤にさしかかっている。

言葉にはできないいろいろな思いを、それぞれのお年寄りが、胸の中に秘めていらっしゃることだろう。

 

 

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NHKで、佐野洋子さんのエッセイを朗読する短い番組がある。

 

 

父が言っていたことと同じ内容があった。

番組中に流れたことの、私の記憶です。

 

愛猫が余命一週間と宣告され、見守るお話。

最初は食べさせれば奇跡的に回復するのではと信じ、キャットフードをスプーンに一杯二杯と勧めるが、義理で口に運ぶ様子に、もう見守ろうと決める。

とにかくじっと目をつぶって丸くなるだけの姿に、なんて偉いんだろう、と感心する。

そのうち、風呂場のタイルの上にうずくまるようになる。

熱があってひんやりするのがいいのか、暗くて落ち着くのか。

一ヶ月くらい経ったある日、オゲッ と言う声に死んでしまったかと思い駆け寄ると、

もう一度 オゲッ と言って亡くなった。

 

この猫は、最後まで荒れも騒ぎもせず、その時であることを受け入れて死んでいった。

しかし、人間は大騒ぎだ。延命だの、なんだのと。

いや、太古の人間は、こうして動物と同じように静かに死んでいったのかもしれない。

そう言って、佐野さんは締めていた。

 

***

 

私の人生の最終目標は、ピアニスト川上ミネさんの

 

O MEU CAMINO

O MEU CAMINO

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このアルバムの2曲目のような人になること。

自然の景色のような。

金持ちとか、正義とか、人間が作った価値観を取り払って、優しくそこに居たい。

美しい景色に癒されるのに、理由なんてない。

偉大なわけでもない、むしろ何もないから癒される。

 

そんなお年寄りになりたい。

 

 

かわいい大人の女性であるために

今週のお題「わたしのプレイリスト」

 

私は、女性として『かわいい』と言われたいか『綺麗』と言われたいか、なら『かわいい』と言われたい。

 

人生で過去最高に嬉しかった『かわいい』は。。。

数年前、温泉の脱衣所での出来事。

私と同じタイミングで浴室から出てきた母娘があった。

体を拭いていると、先にママに拭いてもらって自由になった2〜3歳くらいの女の子だ、私のところにやって来て、じっと私を見て「ママ、ママ、見てかわいいよ」と。

私の後ろに美人の背後霊でも見えたか。私はもうすぐ60歳。あなたこそまるで天使だよ。

 

連れ戻しに来たママが、また素敵。「失礼しましたぁ、ごめんなさーい」ではなく、

「そう、よかったね。じゃあサイン貰っておく?」と。洒落ている。

 

***

 

大人になった原田知世が、素敵なボサノバ風のアルバムを出していることを知った。

 

 


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 ある時、小物屋さんで、かわいい小物達を買うとは無しに眺めていたら、店内に流れる曲がアルバムだと気づいた。日本語だけど、英語の歌も混ざってくる。とても軽くて、かわいい小物達によくフィットしてる。

思わず店員さんに誰のアルバムなのか尋ねて、その時知った。

 

youtu.be

 

大人の女性ボーカルなら、竹内まりあとか今井美樹も好きだけど、原田知世は聞くと言うより、いつまでも浸っていられる。海辺のカフェだったりしたら、ずーーっと聞いていられる。

 

 

youtu.be

 

 

***

 

 

 

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大人のかわいい女性ってどんなだろうと考えた。

自然体、素直に愛せる、、、、

 

いつまでも、かわいいと言われたいけど、やはり、70歳になっても80歳になっても、主人のことを素直に愛せている自分が理想のかわいいかもしれない。

 

 

主人と私は、学生時代からの恋愛で結婚した。

結婚して子ども達が生まれ家庭を築くと、私達は神様の思し召し通り、ツガイとしてさらに結束を強めた。

 

お互い、何より家庭を大事にし、私にとって家族は宝物で、それ以外何もいらなかった。

 

けれども、時が経ち。

子ども達はそれぞれの道に巣立っていった。

 

二人だけになった我が家。

もうツガイである絶対の必要性がない。神様の御用を無事成し遂げることができた。

 

私の少しばかりの喪失感と同時に、主人は、家庭から仕事へと重心を移した。

社長職を継ぎ、地元に根ざした会社であるために、土日返上で地元にご奉仕する日々となった。

 

私は、覚悟を決めなければいけなかった。いつまでも寂しさにメソメソしていてはダメだ。

一人の女性として、また生き方を見つけなければ。

 

二人のツガイとしての関係を、一旦解く時、ギシギシと音がした。

繋がりがとても強かっただけに、解く時の痛みも強く、時間もかかった。

何度も「この人、誰?」とまで思うほど、溝が広がった時期もあった。

 

***

 

先週末のことだった。

主人は、外せない要件で東京へ一泊の出張に出かけた。

 

翌日昼

私はいつもの駅のスタバで本を読み、食材を買い終えた時、携帯が鳴った。

「あー、俺。今駅まで帰ってきたよ。」

「えっ、駅なの?わたしも居るよ。お昼食べて帰ろうよ。」

「どこで?」

「ほら、新しくできたラーメン屋さん。行ってみようよ。」

 

電話を切って、いっぱい食材を抱えてラーメン屋さんに急いだ。

二人とも同じものを注文し、駅の店にありがちな小さめのテーブルでラーメンを啜った。

 

主人は、宿を取った銀座の街で迷子になりそうになったことを嬉々として話した。

顔が近いし、なんか恥ずかしくて、私はラーメンに目線を落とした。

 

主人は脳内で地図を描くことに、絶対の自信を持っている人だし、プライドも高い。

その主人が

「でさ、仕方なくコンビニで水買って、道きいたよ。」

と、ニコニコと話す。ラーメンから顔をあげ、私もニコニコしてしまう。

「やっぱり、スマホじゃなきゃダメって話だね。」

 

「それなんだよなー。実はさ、帰りの新幹線ホームで『回送列車が参ります』って言うじゃん。新幹線の回送?って不思議に思ったら、案の定、目の前を、ドクターイエローが通り過ぎたのよ。みんな、さっとスマホで撮ってたけど、ガラケーじゃあなぁ」

 

ラーメンの丼が空になると、午後の仕事に向けて、それぞれの車で帰った。

いつもの様に、何も言わず、大きな買い物袋を引き受けて歩いて行く主人の背中に年齢を感じた。

お互い歳を取ったね。

 

***

 

学生時代、街の本屋さんの店先に、彼のYAMAHAのバイクを見つけると、「あっ、居るんだ。」と思ってドキドキしたものだった。

 

大丈夫。今でもあのワクワクは忘れていない。70歳でも80歳でも、きっと忘れない。

 街で偶然会えでもしたら、わーって手を振って走っていくよ。

 

 

琵琶湖一周サイクリング

 

 

※この記事は『新しい朝が来た』『ありがとう。』の続編です。

 よかったらこちらからご覧ください。

 

tenebo.hatenablog.com

 

 

tenebo.hatenablog.com

 

 

 

初夏の風が吹くと、

40年前働いていた児童養護施設の調理室の勝手口から外に出た時、すーっと顔を撫でていく風の匂いが、故郷島根のそれと似ていて、故郷が恋しくなったもんだよなぁ、、、

とあの頃のことを思い出す。

 

 

児童養護施設では、子ども達と寝食を共にする24時間勤務で、食住代や光熱費も要らないとはいえ、お給料は7〜8万円だった。社会人になって両方のおばあちゃんに喜んで欲しくて、1万円ずつ送金していたので、手元には毎月5〜6万円残るだけ。でも、全く気にしていなかった。

アザを作りながら、子ども達と格闘する日々は、私にとって生きることそのもので、お金を貰うと言うより、ただ毎日を懸命に生きていると言うことだった。

 

あの思い出は、今となれば何にも代え難い、大切な大切な日々だった。

 

***

 

当時、私は中高生の男子寮の担当だった。それと企画係で、イベントの企画をしていた。

相棒は、O先生。男子寮でも企画係でも一緒。

私達は、天然ボケ同士のなかなかの迷コンビだったけど、ある年、記念に残るビッグイベントを成し遂げた。

 

琵琶湖一周サイクリング

 

言い出したのは彼女。「夏休みに、自転車で琵琶湖を一周するってどうですか?」

話を聞いたのは私。「うん。いいね。やろやろ。」

私達二人に、見通し とか リスクマネジメント とかのワードを求めてはいけない。

天然コンビだから。

 

ところが、この企画、あっさり職員会議を通ってしまう。全員どっか天然なのかな。

でもやるとなったら、苦労とか言うワードも関係ないのが天然の強みだ。

なんせ男女中高生、30人くらいを無事に引率しなければならない。

 

***

 

事前に、O先生と私は、男性指導員のM先生に運転して貰って、車で下見に出かけた。

スマホGoogleマップのない時代。それはそれは地道な作業で、そして楽しい1日だった。

 

ストップウォッチと地図を持ち、車の距離メーターを細かく観察し、子どものペースでどれくらい進めて、どのあたりで休憩を取らせるか検討しながら、ゆっくり走った。

何より、どの道を選ぶか。極力脇道を探す。

湖北に入ると、避けては通れない長いトンネルがある。歩道はあるが、側をガンガントラックが通って行く。最大の難所になりそうだった。

 

***

 

当日、晴天。真夏の日差しが焼けつく。

初日はまず琵琶湖沿いに出て、湖南から近江八幡へ。予定通り到着し、この日はキャンプだ。

 

2日目、湖北に入る。相変わらず太陽は照りつけるし、トンネルの恐怖もあるし、、、。

でも、湖岸道路からの景色は最高だった。湖面がキラキラして、日本なの?と思った。

来て良かったと、胸が熱くなる。水面の光と遠くの景色と、懸命にペダルを漕ぐ子ども達の背中をかわるがわる見ながら、「みんな見てるかい、この景色」と、心で問いかけた。

 

この夜は、宿の風呂に入り、全員身体を休めた。

 

 

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これは、最近びわ湖バレイから撮った琵琶湖です。

 

3日目は、大津の方へ戻る。

最後の、子ども達へのサプライズとして私たちが用意していたのは、大津の街で外食をすること。これだけの人数で外食は、よっぽどでないとできない。

ナイフとフォークの洋食ランチをみんなで食べて、さあ、最後の道のりです。

 

 

山のてっぺんにある園の坂を、登って行く。最後の力を振り絞って。

ゴールをすると、お留守番の先生方が園庭で手を振って迎えてくれた。

やんちゃ高校生も、全員ハイタッチで出迎えの中を通って行く。

 

***

 

このブログの読者様、当時中学生のMと、高校生のMも一緒にママチャリで走ったよね。

もう二人ともアラフィフ、でっかい娘達。

一人のMは医療系の管理職、一人のMは保育園の園長先生をしている。立派になったね。

みんなに出会えて、懸命に生きた日々があるから今の私があると思う。本当にありがとう。

コロナの後で、必ず会おうね。

 

***

 

この後、一緒に下見に行ってくださったM先生に事件が起こり、私の時々スーパーマンが本当に園にやって来ることとなる。