言葉の花束

 

 

私の娘は31歳。

昨年嫁いで行きました。

 

大人になって、母の私より社会性が広がり、

考えも、独自の世界観を持つようになって。

でも、何故か私(母)のことを話す時

切なく目に涙を浮かべる......なぜなの。

 

それに答えてくれた日のメールは

私の宝物です。

 

 

 

『お母さんの「幸せのストライクゾーン」は

すごくはっきりしてる。

だから投げたボールが外れてしまうと、お母さんは

悲しさや不安や苛立ちを表現する。

 

だから私は、何気ない会話の言葉のチョイスや、行動で

お母さんの「ストライクゾーン」に投げるようにしてきた。

だってお母さんにちゃんと愛が伝わってほしいから。

 

だけど私も、私自身の我や思いが入ると

「ストライクゾーン」に入れられなくなる。

そうすると、お母さんは悲しむ。

 

 

でも、それでも「お母さん大好きだよ」って言う気持ち

は変わらないのに。。。

 

 

だけど、今は変わってきた。

「ストライクゾーン」じゃないところにも

幸せはあるよって伝えたいし、

私はいつだってお母さんにボールを投げてる事実は

変わらないよ、って伝えたい。

 

幸せの幅は無限大だと伝えたい。』

 

 

 

私は、子どもたちを育てる時、

言葉で表現することを大事にしてきました。

子ども扱いせず、「きちんと伝える」ことは

親として見せてきた姿勢でした。

 

 

いつの頃からか

娘は、身体も心も

私の両手では抱えられないほど大きく成長し

こんな大きな言葉の花束をくれるほどになりました。

 

 

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あなたの言うことは、多分、多少の違いはあっても

誰にでも言える真理だと思います。

 

愛のやりとりには、たとえ親子でも

もどかしさはつきもの。

だから「信じ力」が必要なんだね。

人を信じるときに湧き出てくる力。

 

 

服を買いに行っても、ご飯食べに行っても

結局語り合ってる時が一番楽しかった。

いつも側にいて、私にストライクを投げるまで

寄り添ってくれたよね。

 

 

 

 

でも、もう娘の隣の席を空けなければいけません。

娘に、子どもができることになりました。

 

この30本目の記事を、酷いつわりに耐えて頑張る娘に

贈ります。

 

 

 

 

今回この記事を書くのに、何日も書いてはやめ、

書いてはやめ。

今回もやめようかと思ったのですが、娘にエール

を贈りたかった。

それなら当然、個人的にすれば良いことなのですが。

 

みなさんに読んで頂こうとする以上は

ある程度の作品にしようと、努力する、その過程で

娘への感謝の気持ちが改めて咀嚼できました。

 

 

私がブログをする意味を体感しました。