愛を測るものさし

 

 

学生時代、障害児ボランティア一筋だったので

灰谷健次郎さんの本は、私にとってカンフル剤だった。

 

だれもしらない

だれもしらない

 

 

 

まりこが一日のうち、外へ出て歩くのは、四百メートルほどだ。八時四十五分きっちりに通学バスがくる。それに乗ってまりこはM養護学校に行く。

  まりこは小さい時の病気がもとで、筋肉の力が普通の人の十分の一くらいしかない。歩く時は、普通の人の十倍の力を出さないといけないわけだから、まりこが歩いているときの格好は、うんと激しい踊りを踊っているようなのである。

  まりこが歩いていると、色々な人が色々なことを言うのだった。
「大変でございますね」
「がんばってね」
 お母さんにもまりこにも、はっきり聞き取れる声の人は、そのようなことを言った。二人によく聞き取れない声の人は、
「おぶってやればいいじゃないか」
「あれじゃ日がくれる」
などと言った。お母さんを悲しませ、決してまりこに聞かせたくない言葉をはく人もあった。二百メートルを四十分もかかって歩く子は、何にも楽しみがないと思うらしかった。

 

まりこには

ゆっくりしか歩けないからこその

楽しみがあった。

早く歩いていたら見過ごしてしまうような

毎日の景色の小さな変化を観察すること。。。

 

 

でも、

私がいつも心のポケットに入れていた

大切なお守りのような言葉は

この本の表紙の裏に書かれていた。

 

『人をどれくらい愛しているか

測るものさしはないけれど、

人をどれくらい愛しているかは

人をどれくらい理解しようとするかです。』

 

学生でお金がなかったので、買えなかったけど、

心の中に刻んで、書店を出た。

以来、ずっと私を支え続けてくれた言葉。

 

 

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『人を愛すということは、人を理解すること』

それが、私の信念だった。

 

 

このことを書いてみようと思ったのは

昨日の娘との電話がきっかけだった。

 

娘の電話は、

やっと酷いつわりの時期を抜け出せるかな

というもの。

 

「とにかくぼーっとしていなさい。

お母さんが心配しているかな、

とか、考えなくていいから。」

 

と言った自分の言葉にハッとした。

娘は、中学生の頃から脳疲労を起こしやすく

よく寝る子だ。

 

それは、人を理解しようと

頭をフル回転させてしまう癖のせい

に他ならない。

 

 

 

そんな、うちの娘と同じ感じだな

という生徒が塾の子にも多い。

 

最近の若者(という表現は曖昧だけど)は

優しい。

ふわっとしているようで、

人を理解しようと努力を惜しまない。

 

それが生きる上での大事なスキルになるのか。

 

障害の有無、ジェンダーの問題、社会的格差

SNS等から発信される様々な問題を

無意識に自分の問題として取り込んでいるのか。

 

小学生が輪になって話しているので、

何話してるの?と聞くと

「学校のコミュ障の子をどう受け入れるか」

だそうだ。決して悪口ではないと加えていた。

 

 

多様性を、身をもって受け入れようと

する時代の子達だ。

 

 

*****

 

さて、私は団塊世代のひと世代下だ。

 

正義、負けない、揺るがない、

って自分を鼓舞して頑張ってきた。

 

 

  でも

最近の子たちを理解しようとする程に

ゆるーく、回り道もいいかぁ

と思えるようになってきた。

 

回り道をしたからこそ見える

違った景色がある。

 

 

今こそ

『人を愛すということは、理解すること』

をすぐお隣の大切な人のために

実践できているのかもしれない。