「素敵」はなぜ「敵」なのか
皆さんの記事のコメントに「素敵な〜ですね」と書くことがよくあり、ふと思った。
「あれ、漢字間違えてないかな、褒め言葉なのに『敵』でよかったかな?」これも一種のゲシュタルト崩壊というのか。
偶然それに答えをくれる本と出会えた。
少し前に、ある人の記事で紹介されていて、早速買ってみた。ところが、どなたのブログだったか思い出せない。私は、いいなぁと思うとスターだけ残されて頂き、即オーディブルやアマゾンのサイトに飛んでしまう。この記事だけで2冊も買ったのに、どなただったか思い出せない。申し訳ありません。
この本の著者の一人、ひすいこたろうさんはコピーライターだけあって、短い言葉で、キャッチコピーの様に、上手く伝えたいことを表現されている。
ベースの考えが人は関係性の中で生きている、と言うもの。
『素敵』が『敵』と言うのは、賞賛と逆風が50%ずつの方が、天狗にならず努力するので、『敵』は必要。『陰』と『陽』の均衡が必要、とのこと。
ひすいさんは、欠点ばかりの自分のことが嫌いだった。「凹ばかりの自分じゃダメだ。もっと凸ばかりになる様に成長しよう。」と自分を責め頑張って生きてきた。
のちに、その考えの落とし穴に気づく。
でも、自分じゃないカタチになると、周りの人たちと繋がれなくなり、人生というパズルが完成されなくなる。
ありのままのカタチを受け入れるほどに、周りの人達と繋がり、自分という一つのピースが、実はパズルという全体の一部だったことに目覚めていく。
私達が周囲と繋がることで「他人の可能性」がそのまま「自分の可能性」になる。
※少し省略して抜き出してみました。
小学4年生の時だった。
東京から島根県に転校してきた私は、人付き合いが苦手というのもあり、いつまでも自分は浮いていると思っていた。学校は苦手だった。ことあるごとにクヨクヨして、教室の隅に居た。
そんな自分を励ますために、子どもなりにこんなイメージを持ってみた。
『人生には、困難が壁のように目の前に立ち塞がる。
私はなんとか努力してその壁を乗り越える。そして一段高いところに私は上がる。
しかしじきに、また次の壁が現れる。またなんとかそれを登り、一段高いところに上がる。
そうやって、人生には繰り返し壁が現れ、それを超える毎に高いところへ行ける。
高いところに行けば、あたりを見渡せる。誰が頑張っていて、誰が困っているのか、よく見える。私のいくべき場所が見えてくる。
一方、その壁は回避して前へ進むことができる。
でも回避した人は低いままだ。大人になっても視点が低く、視野が狭い。自分の目先しか見えない。自分、自分と言っている。』
いつも、一人物思いにふけっている少女だった。
でも、これは小4から最近まで、私の考え方のベースとして変わっていなかった。
でも、『パズる』という生き方もおもしろそう。
高い志より自分をありのままのカタチで受け入れること。
周りの人たちの中で、その自分を活かしていくこと。
一人で『考える』より『意見を出し合う』こと。
さあ、60歳からでも遅くはない、ピースがはまる仲間を探しに旅に出るか!